町田は神奈川だった?
こんにちは。町田支社です。
ついに、桜が開花しました
これからも暖かな日が続きそうなので、来週は満開の桜が見れそうですね
さて、わが町、町田市は、神奈川県に食い込むような形をしており、町田は、ほぼ神奈川だ、とよく言われます。
しかし、本当に昔、町田が神奈川の時代があったということをご存じな人は、多くはないかもしれません。
今回はその経緯をご紹介したいと思います。
多摩ほぼ全域が「神奈川」に!!
一般的に町田が属する多摩地区とは、東京23区より西側に位置するエリアのことを指し、「三多摩」などと呼ばれることもあります。

「三多摩」の名はかつて「北多摩郡」「西多摩郡」「南多摩郡」だったことに由来します。(ただし世田谷区の旧砧(きぬた)村なども含まれており、必ずしも現在の境界線とは一致しません。北多摩郡にあった砧村は現在、成城や喜多見となっています。)
この地域は明治維新後、「品川県」「韮山(にらやま)県」「入間(いるま)県」「西端(にしばた)県」などに分割されました。
西端県は愛知県碧南市を中心とした県でした。
1871年(明治4年)に実施された廃藩置県の後、三多摩の大半は神奈川県に所属することになりました。
理由としては、神奈川県が移管に先立って、多摩郡が外国人遊歩区域にあたるとし、管轄させるよう求める申立書を出したことが大きいです。
遊歩区域とは、外国人が自由に出かけられる場所のことで、港(この場合は横浜)から最大10里(40キロ)の範囲とされていました。
それからしばらく、北多摩郡と南多摩郡、そして西多摩郡の「三多摩」は、神奈川県として扱われることになります。いまの市域で言うと、町田だけでなく、八王子や立川、武蔵野、三鷹など広範囲にわたります。
東京にもどった理由
それから約20年。1892年12月16日に、三多摩を神奈川県から東京府に移管する「法律案」が出されました。
最大の理由は、山梨県に源流を持つ玉川上水が、「神奈川県」の西多摩郡と北多摩郡を通過して、東京府へと流れていること。
1886年にコレラが流行したとき、「西多摩郡内で患者の排泄物が投下された」や、「コレラ患者の衣服を洗濯した」などという、うわさが広まりました。
本当なら羽村から玉川上水を伝って東京の水道が汚染されてしまうということで、混乱しました。実際は定かではありません。
この事件が「多摩の東京移管」機運を高めることとなりました。
当時、多摩川の上流は神奈川県に属していましたが、見回りの強化などのためにも東京府が直接管理すべきだ、となったのです。
東京府知事による上申書によると、三多摩と東京府は水道問題以外にも、甲州街道や甲武鉄道(現在の中央線)などで利害が一致しているとも書かれていました。これを受けて、翌年4月1日、3つの郡が東京府へ移り、ほぼ現在の「東京都」と同じ形ができあがります。
しかし、玉川上水の水源は西・北多摩郡にあったため、南多摩郡まで移管する必要はなかったのです。
南多摩郡とは、現在の町田市、八王子市、多摩市、稲城市、日野市のこと。
この水源問題に加えて、実は、自由民権運動の盛んだった多摩地域の勢力を削減するという政治的な思惑があり、水源に直接関係のない南多摩地域も含めて多摩地域は東京府に移管となったのです。

法案が出た当時は、交通事故療養中の伊藤博文首相に代わり、井上馨内務大臣が「臨時代理」を務めていた(「東京府及神奈川県境域ヲ変更ス」、国立公文書館デジタルアーカイブより)
以上が、東京都町田市になる経緯なのですが、まさか感染症がきっかけとなっているとは、驚きでした。
今、世界を深刻にさせている今回の感染症においても、いろんな社会生活の概念が覆されたり、法律が変わったりすることがたくさん出てくるでしょう。
とにかく、早く終息することを願います。
ついに、桜が開花しました

これからも暖かな日が続きそうなので、来週は満開の桜が見れそうですね

さて、わが町、町田市は、神奈川県に食い込むような形をしており、町田は、ほぼ神奈川だ、とよく言われます。
しかし、本当に昔、町田が神奈川の時代があったということをご存じな人は、多くはないかもしれません。
今回はその経緯をご紹介したいと思います。
多摩ほぼ全域が「神奈川」に!!
一般的に町田が属する多摩地区とは、東京23区より西側に位置するエリアのことを指し、「三多摩」などと呼ばれることもあります。

「三多摩」の名はかつて「北多摩郡」「西多摩郡」「南多摩郡」だったことに由来します。(ただし世田谷区の旧砧(きぬた)村なども含まれており、必ずしも現在の境界線とは一致しません。北多摩郡にあった砧村は現在、成城や喜多見となっています。)
この地域は明治維新後、「品川県」「韮山(にらやま)県」「入間(いるま)県」「西端(にしばた)県」などに分割されました。
西端県は愛知県碧南市を中心とした県でした。
1871年(明治4年)に実施された廃藩置県の後、三多摩の大半は神奈川県に所属することになりました。
理由としては、神奈川県が移管に先立って、多摩郡が外国人遊歩区域にあたるとし、管轄させるよう求める申立書を出したことが大きいです。
遊歩区域とは、外国人が自由に出かけられる場所のことで、港(この場合は横浜)から最大10里(40キロ)の範囲とされていました。
それからしばらく、北多摩郡と南多摩郡、そして西多摩郡の「三多摩」は、神奈川県として扱われることになります。いまの市域で言うと、町田だけでなく、八王子や立川、武蔵野、三鷹など広範囲にわたります。
東京にもどった理由
それから約20年。1892年12月16日に、三多摩を神奈川県から東京府に移管する「法律案」が出されました。
最大の理由は、山梨県に源流を持つ玉川上水が、「神奈川県」の西多摩郡と北多摩郡を通過して、東京府へと流れていること。
1886年にコレラが流行したとき、「西多摩郡内で患者の排泄物が投下された」や、「コレラ患者の衣服を洗濯した」などという、うわさが広まりました。
本当なら羽村から玉川上水を伝って東京の水道が汚染されてしまうということで、混乱しました。実際は定かではありません。
この事件が「多摩の東京移管」機運を高めることとなりました。
当時、多摩川の上流は神奈川県に属していましたが、見回りの強化などのためにも東京府が直接管理すべきだ、となったのです。
東京府知事による上申書によると、三多摩と東京府は水道問題以外にも、甲州街道や甲武鉄道(現在の中央線)などで利害が一致しているとも書かれていました。これを受けて、翌年4月1日、3つの郡が東京府へ移り、ほぼ現在の「東京都」と同じ形ができあがります。
しかし、玉川上水の水源は西・北多摩郡にあったため、南多摩郡まで移管する必要はなかったのです。
南多摩郡とは、現在の町田市、八王子市、多摩市、稲城市、日野市のこと。
この水源問題に加えて、実は、自由民権運動の盛んだった多摩地域の勢力を削減するという政治的な思惑があり、水源に直接関係のない南多摩地域も含めて多摩地域は東京府に移管となったのです。

法案が出た当時は、交通事故療養中の伊藤博文首相に代わり、井上馨内務大臣が「臨時代理」を務めていた(「東京府及神奈川県境域ヲ変更ス」、国立公文書館デジタルアーカイブより)
以上が、東京都町田市になる経緯なのですが、まさか感染症がきっかけとなっているとは、驚きでした。
今、世界を深刻にさせている今回の感染症においても、いろんな社会生活の概念が覆されたり、法律が変わったりすることがたくさん出てくるでしょう。
とにかく、早く終息することを願います。
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